- ドイツ国
大ドイツ国 - Deutsches Reich
Großdeutsches Reich -
- 国の標語: "Ein Volk, ein Reich, ein Führer."
- 国歌: ドイツの歌、旗を高く掲げよ
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ナチス・ドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党(略称NSDAP、蔑称ナチ党・ナチス)が政権を掌握していた1933年から1945年の間の元首制的共和国としてのドイツ国を指す。
国名
正式な国名は帝政ドイツ、ヴァイマル共和国を通じて「ドイツ国(Deutsches Reich、ドイチェス・ライヒ)」であった。一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)、帝政ドイツ(1871年 - 1918年)に次ぐという意味で、「第三帝国(独: Drittes Reich、英: Third Reich)」という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス・ドイツ政府はこの語の使用を禁じた。日本では戦後になって英語の「Third Reich」の訳語として「第三帝国」がより広く知られるようになった。
ドイツによるオーストリア併合以降、民間などの間で「大ドイツ国(Großdeutsches Reich、グロスドイチェス・ライヒ)」の呼称が使われ始めた。1943年6月24日、総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースは 公用文書Erlass RK 7669 Eの中ではじめて「Großdeutsches Reich」の用語を用いた[1]。10月24日以降は切手にも「Großdeutsches Reich」の語が印刷された。ただし、正式な国号変更宣言は出されなかった。
「ナチス」は国家社会主義ドイツ労働者党の蔑称であるが、党が政権をとる前から世界に広く知られていた[2]。このため同党の政権掌握後、英語圏ではドイツを指してNazi Germanyという呼称が用いられた。日本においても昭和8年(1933年)10月27日の大阪毎日新聞には「ナチス独政府」[3]という表記が見られ、昭和10年(1935年)4月28日付の大阪朝日新聞では「ナチス・ドイツ」の呼称が用いられている。昭和11年(1936年)5月31日付大阪朝日新聞の天声人語でも「ナチ・ドイツ」[4]と表記され、戦時中の昭和18年(1943年)1月11日でも「ナチスドイツ」という語が用いられた[5]。
第二次世界大戦後、東西ドイツ両政府は「ナチス・ドイツ」という戦前のドイツでは使用されていなかった言葉を積極的に利用した。しかし、これはナチス政権下のドイツ政府と国民による対外侵略政策やユダヤ人撲滅政策に対する責任をナチス党政権のみに押しつけるレトリックであるとして批判もある。
年表
- 1932年
- 1933年
- 1934年
- 1月30日 「ドイツ国再建に関する法」成立。各州の主権がドイツ国に移譲され、州議会が解散される。
- 6月30日 「長いナイフの夜」事件。突撃隊幹部や前首相シュライヒャーなど政敵が粛清される。
- 8月1日 「国家元首に関する法律」(de)が閣議で定められる。
- 8月2日 ヒンデンブルク大統領が死去。「国家元首に関する法律」が発効し、首相職に大統領職が統合されるとともに、「指導者およびドイツ国首相(Führer und Reichskanzler))アドルフ・ヒトラー」個人に大統領の権能が委譲される。以後、ドイツ国の最高指導者となったヒトラーの地位を日本では「総統」と呼ぶ。
- 8月19日 国家元首に関する法律の措置に対する国民投票。投票率95.7%、うち89.9%が賛成票を投じる。
- 1935年
- 1936年
- 1937年
- 1938年
- 1939年
- 1940年
- 1941年
- 1942年
- 1943年
- 1944年
- 1945年
歴史
政権掌握
詳細は「ナチ党の権力掌握」を参照
ナチスはヒトラー内閣成立直前の1932年の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失ったが、第一党の地位は保持した。一方ドイツ共産党は11議席を増やし、首都ベルリンでは共産党が投票総数の31%を占めて単独第一党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチスへの献金も再開された。
1933年1月30日、ヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部であるヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、突撃隊や親衛隊を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵、特にドイツ共産党およびドイツ社会民主党員が政治犯として収容所に収容された。
- 非常権限掌握
ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月27日にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーはこれを口実として「民族と国家防衛のための緊急令」と「民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、ドイツ共産党に対する弾圧を行った。選挙では共産党議員も多数当選したが、選挙後に共産党は非合法化され、共産党議員の議席は議席ごと抹消された。ドイツ中央党など中道政党の賛成も得て全権委任法を制定し、独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされ、ナチス党は国家と不可分の一体であるとされた。
1934年6月には突撃隊幕僚長エルンスト・レームをはじめとする党内の不満分子やナチス党に対する反対者を非合法手段で逮捕・処刑した(長いナイフの夜)。1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは従来の首相職に加えて国家元首の機能を吸収し、国民投票によってドイツ国民により賛同された。これ以降のヒトラーは指導者兼首相(Der Führer und Reichskanzler)、日本語では総統と呼ばれる。
- 支配の強化
1935年にはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。ヒトラーはアウトバーンなどの公共事業に力を入れ、壊滅状態にあったドイツ経済を立て直した。一方で、ユダヤ人、ロマのような少数民族の迫害など独裁政治を推し進めた。1936年にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって非武装地帯となっていたラインラントに進駐した(ラインラント進駐)。同年には国家を威信を賭けたベルリン・オリンピックが行われた。また、1938年には最後の党外大勢力であるドイツ国防軍の首脳をスキャンダルで失脚させ(ブロンベルク罷免事件)、軍の支配権も確立した。
外交においては"劣等民族"とされたスラブ人国家のソ連を反共イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を模索していたとされる。アジアにおいてはリッベントロップ外相の影響もあり、伝統的に協力関係(中独合作)であった中華民国(中国)から国益の似通う日本へと友好国を切り替えた。1936年には日独防共協定を締結。1938年には満州国を正式に承認し、中華民国のドイツ軍事顧問団を召還した。1940年9月にはアメリカを仮想敵国として日独伊三国軍事同盟を締結した。
- 領土拡張政策
1938年にはオーストリアを併合(アンシュルス)。9月にはチェコスロバキアに対し、ドイツ系住民が多く存在するズデーテン地方の割譲を要求。英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、イタリアのベニート・ムッソリーニの提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳によるミュンヘン会談が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。
この時ヒトラーが英国のネヴィル・チェンバレン首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌1939年にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させたスロバキアを除いて事実上併合した(チェコスロバキア併合)。オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、ポーランド領となっているダンチヒ回廊であった。ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との間で独ソ不可侵条約を締結。世界中を驚愕させた。
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